編集者より

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みずき書林 岡田林太郎

〈良い写真〉とはどんな写真のことなのでしょうか。
正直に書くと、僕にはよくわかっていません。
もちろんある写真を見て、「これはいい」「これはあまり好きじゃない」などと感じることはあります。でも何をもって良いと思っているのかは、いまひとつ明確に言語化できていません。ただ何となく、良いと感じるのです。
たとえば文章に関してなら、その良し悪しについてそれなりに言葉にすることができると思います。でも――いままで触れてきた絶対量が不足していて、それを言葉にしようと試みた経験も足りないために――写真については、その良し悪しをうまく言葉にできないままでいます。
松本智秋さんの写真を最初に見たときもそうでした。
そこに何か惹かれるものがあるのはわかります。何かいいなと感じるものがあります。
でもそれが何なのか、言語化しないままに本を作ってきてしまいました(このテキストは、昨日本が出来上がったばかりのタイミングで書いています)。
そこでこの場所を利用して、編集担当の僕が智秋さんの写真のどこに魅力を感じているのかを言語化してみようと思います。

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たとえば50ページにイラクのクルド人自治区の首都アルビルで食べた料理の写真が載っています。じゃが芋が入った煮込み。蒸し鶏と干しブドウが乗ったごはん。ホブス(平焼きパン)。レモンと生玉ねぎの小皿と辛そうなソースが入った小皿も添えられています。

もし日本のレストランで、いわゆる〈映える〉写真を撮ろうとするなら。
まずそもそも、皿の右端からはみ出している煮込みのソースは、綺麗に拭き取られて供されるでしょう。ごはんの上の蒸し鶏も干しブドウも、もっと綺麗に――というか丁寧に盛り付けられるでしょう。
でも智秋さんはそんなことはおかまいなしに、そのままを撮っています。
ふと横を見て、クルドの男たちが同じものを食べている風景もついでに撮っておく、それが隣のページの写真です。
彼女が見たままを、彼女の主観でそのまま撮る。
その結果、少なくとも僕には、この変哲もない、どちらかというと雑な盛り付けのランチが、ちょっと食べてみたい気になるひと皿になります。
干しブドウと細長い米の味を想像し、男だらけの店の喧騒(とはいえノンアルコールなので意外と落ち着いた雰囲気なのかもしれない)を想像します。
智秋さんの写真には、そんな想像の余地がたっぷりあるように見えるのです。
完璧な構図、ほどよくボケた背景、文句のつけようもなく美味しそうな料理……。そんな〈映える〉写真とは真逆のところで、智秋さんは無作為・無添加の写真を撮っているようです。

我々はその写真を見て、「ああ、これは本当に智秋さんが見てきた風景なんだな」と、気持ちよく納得することになります。
(ときに、食べるのに夢中でシャッターを切り忘れ、食べかけのサラダやパンだって写りこむときがあります。普通はボツにしますよ、そういう写真は(笑)。でもそういう生活感や智秋さんの旅の細部を見つけることが、また魅力になっています)

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智秋さんの写真のもうひとつの魅力は、写っている人びとにあると思います。
たとえばカバーに映っている女性と子どもたち。西安の麺屋の女の子。バングラディッシュの玉ねぎ売りの女性、イランのカフェのおっさん。タジキスタンでサムズアップするおばちゃん。シリアで廃墟と化した街の中をパンを持って歩くおじさん。さまざまなキッチン用品に囲まれて手を振っているダゲスタンのおばさん……。
挙げていけばキリがありません。彼らはみんな、カメラ目線で笑っています。

どうしてこんな表情が撮れるのでしょうか。
智秋さんは単なる旅人であり、写っている彼らにとっては仲良しでも親しい間柄でもありません。にもかかわらず、彼らは無邪気というか無防備というか、そんな笑顔を向けているのです。
僕が同じ場所で同じ人に会ってカメラを向けたとしても、こんな自然な笑い顔を返してくれる自信はまったくありません。へたをすれば石ぐらい投げつけられる恐れすらあります。
僕が想像するに、カメラのこっち側では、きっと智秋さんは彼らとまったく同じ顔で笑っているのだと思います。彼らの笑顔は、映っていない智秋さんの笑い顔の反射なのでしょう。
本作りを通して智秋さんを知ったことで、僕はカメラをかまえながらにこにこ笑っている彼女をありありと想像することができます。

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そう、やっぱり大切なのは、想像力なのではないでしょうか。
ごはんを通して、見知らぬ土地の風景を想像すること。
目に見えているものはもちろん、その場の味、匂い、音、温度までが自然に浮かび上がってくること。
笑顔を通して、遠い国の人たちを身近に想像すること。
先入観や偏見が消えて、みんなが自分と同じ、のんびりと日々を楽しみたいひとりの人間であることを実感すること。
そういう想像の余地があることが、彼女の写真をふくらみのあるものにしてるようです。

初回の打ち合わせを撮影してくださった写真家の松本慎一さん(akaトナカイさん)は智秋さんの写真を、「(智秋さんの写真が良いのは)美しい写真を撮ろうというよりも、せっかく美しいのだからこれを収めておこうという気持ちによるものだと思います」と評しています。
とても素晴らしい評言だと思います。
たしかに、美しい写真を撮ることと、美しいものを写真に撮ることは違うのだと思います。
前者は技術の問題であり、後者は感性の領域に属することかもしれません。
智秋さんの写真を「良い」と感じるのは、そこに彼女の目線がしっかりあって、我々は彼女の体験を、彼女の感動を、追体験することができるからかもしれません。そして松本智秋の目線は常に、楽しく、美しく、ユーモラスで、明るいものを見ています。くわえて、時折の静かさや怒りやどうしようもないモヤモヤ感を避けることもありません。
おいしそうなものを前にしたら目を輝かせ、知らない人と一緒に爆笑し、瓦礫を前にして言葉を失い、つまるところ、旅とは――もしかしたら純度の高い人生とは――そういう時間でできているのかもしれません。

彼女がもっとも強い思い入れを持っている場所のひとつであるシリアのページ。瓦礫の写真の間に、カラフルなジュースの容器と棚一杯のフルーツが映る写真を配しました。
瓦礫の街を前にして呆然として言葉がみつからない。智秋さんは「アレッポの、建物が破壊され焼け焦げた地区を歩く。あまりの惨状に混乱と困惑」と書いています。
でも色のない一面の瓦礫のなかでも、まばゆいばかりの新鮮なフルーツをしぼってジュースにするスタンドを発見します。
写真の真ん中やや左寄りには、フルーツの印刷された派手なカップ。ストローが画面を突き抜けてまっすぐに伸びています。いかにも気の良さそうなおっちゃんの指先は綺麗に爪が整えられていて、戦禍を感じさせません。客商売の几帳面さがうかがえるようです。そして添えられた文章には、「オレンジジュースに励まされる日が来るなんて想像したこともなかった」と綴られています。
「想像したこともなかった」と書いていますが、きっと彼女には予感があったはずです。いつの日か再び、この写真に救われる日が来ることを。だから彼女は強力なインパクトを持つ瓦礫の写真だけでなく、何でもないジュースやミルクプリンの写真をしっかり撮影しました。

コロナ禍で思うように旅に出かけられなくなって、彼女はいま何を思っているのでしょうか。
せめてこの本が彼女を励まし、彼女の見てきたものをほんのひとさじでも読者が想像できるきっかけになりますよう。

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最後に余談ながら。
先述のダゲスタン共和国の女性(115ページ)。ガレージセールなのでしょうか、キッチン用品に囲まれて陽気に手を振っています。両開きの大きな扉、やかんのベリー系のイラスト、イスラム圏らしい床の模様、魔法瓶などなど、差し色としての赤が印象的な一枚です。
このおばちゃんのポーズと、奥付の前ページの智秋さんのポーズがまったく同じなのです。こんにちはと言っているような、どーもどーもと言いながら近づいてきそうな。そのことに気づいたときには思わず笑ってしまいました。

ああやっぱり、智秋さんはこんなふうに笑って手を振りながら旅をしていたんですね。