旅のエッセイ

書いては消し、書いては消し、をくり返し、結局「旅のエッセイ」を新規投稿しないまま寝た。起きると、多くの人の祈りや願いはなんら反映されることなく、あっけなく戦争が始まっていた。用意周到な侵攻、矢継ぎ早に更新される状況、その情報で埋まっていくTL。あまりに早すぎてついていけない。現実のこととは思えない。プーチン大統領の演説は、少しボケたおじいさんの妄想かってくらいトチ狂っていると思った。最低限の ”秩序” すら理解できない狂人は、大好きな犬たちとどこか森にでも行って静かに暮らしてろ。

2014年のジョージア旅行を思い出している。

ジョージアの国内移動で利用した列車。そこでウクライナから来たカップルと、ロシアから来たおじさんと同じコンパートメントになった。3人はロシア語で話すので会話の内容はまったく理解できなかったけれど、終始笑いの絶えないたのしい雰囲気だった。

ロシアのおじさんは言語学の教授で数年前まで大学で教鞭をとっていたという。エスペラント語話者でもあり「その肩書きでいろんな国から招待され、日本や欧州各国へ行くことが叶いラッキーだった」と英語でわたしに話してくれた。「ロシアの薄給じゃ物価の高い外国になんてそうそういけない」らしい。聞けば大学の教授でも月給は日本円にして10万円程度だという(もちろん立場や大学によって違いはあるんだろうけど)。

ジョージアやアルメニアの物価の安さに「ハラショー!」とおじさん

この頃ロシアがウクライナ東部に侵攻し、キエフでも暴動や衝突が起きているニュースを見ていたわたしは、ウクライナから来たふたりに「旅行していても大丈夫なの?」とおじさんに聞いてもらった。ふたりは顔を見合わせてからわたしのほうを見て、肩をすくめて笑った。どういう意味だろう?とおじさんを見ると、おじさんはわたしにウィンクをして、その会話は終わった。少ししてからキエフ出身の彼氏のほうがスマホに入っているいくつかの写真を見せてくれた。その写真には、軍用らしきヘルメットで砂遊びをする彼の甥っ子が写っていた。

おじさんは「ロシアのことはもちろん愛している。妻もいる。娘もいる。だけど政治は最悪。戦争なんかにお金を使わずに、国内経済をなんとかしてほしいね。平和がいいよ。あちこち旅行したいね」と言っていた。

おじさんの名前も、カップルのふたりの名前もまったく記憶に残っていない。そんなわたしがこんなタイトルを付けて、ね。でもそういうことなんだよって思う。わたしがどこの国の人間であるかよりも、まずは「松本智秋」であるように、ひとりひとりに名前があり人生がある(仮に名前がなかったとしても、それもその人の唯一無二の人生で、誰にもその人生を軽んじる資格もなければ権利もない)。

どこの国の人であろうと、どんな境遇にいる人であろうと、他者が奪っていいものなどなにもない。

書籍『旅をひとさじ—てくてくラーハ日記—』書影

選りすぐりの写真とエッセイを収録!

書籍『旅をひとさじ—てくてくラーハ日記—』松本智秋 著

A5判並製・コデックス装・フルカラー・144頁
定価:本体1800円+税

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